(10/16)
「生きることのむずかしさ」
物心ついてから、おまえは長女や、醤油屋の後継ぎや、そう言われ続けて、どうやって自分自身、心のとらわれから自由になって生きられるか。両親や祖母、親戚の人たちに逆らってどこかで意地になって突っぱって生きてきた私に、父の言葉は思いがけないものだった。呪縛がとけて気がつくと、心の中に大きな穴がぽっかりとあいていた。私はいったい何のために今まで父に反発していたのだろう。それぞれの所帯を持ちながら、わがもの顔に出入りし自分の家のことのように口出しする叔父や叔母、口うるさい親戚、なぜ、その人たちのために、本家を維持するために家を継がなきゃいけないのだろう。だれかががまんして犠牲になって生きなきゃいけない家などないほうがよい。一人一人、自分の人生を納得して、充実して生きるほうがずっとたいせつだ。そう思って、家そのものに反発してきた。
ほんとうは日本の家族制度、家そのものが悪いのではなく、そこに集う人間が自立していないのだと思う。田舎の本家が強ければ強いほど、子供たちをその周囲にはべらせて、家という大きな傘の下で囲ってしまう。そこは自ら雨風にうたれることはなくぬくぬくと暮らしていける。家に集うことによって家を頼り、自分の頭で考え、自分の足で歩くことのない、自立しきれない人間をつくってしまっていることが問題なのだ。そんな中で自分が暮らしていくことは許せなかった。
けれどもそれらは、みんなどうでもいいことだった。反発して、逆らって気がついたら、自分の中には何もなかった。私は今までいったい何を求め、何をあせっていたのだろう。私も大きな家という傘の下で甘えている人間にすぎなかったのだ。
愕然として父のうしろ姿を眺めた。すっかりやせていまった父の背中には、生命の炎がちょろちょろとやっとともっているようだった。その心もとなさに胸が締めつけられるようにキリキリと痛んだ。生きていることが寂びしくて、哀しくて、涙があふれてくる。父の瞳もうるんでいた。
一週間後、突然、父は亡くなった。
心臓の発作を起こしたのだ。いつかはくるものと予期していたこととはいえ、それはあまりにも突然だった。家の中は、だれも何も手がつかず、とまどいと悲しみに満ち満ちていた。毎日、毎日、ただ茫然と日が過ぎていく。
父の逝ってしまった家、だれも口には出さないけれど、その目が、おまえはどうするのと問いつめている。このまま家にいれば、すんなり醤油屋さんになってしまうことだろう。それでは、父と話し合ったことは何だったのだろう。しばらく家を離れて考えることにした。夜明け前、まだ皆が寝静まっている間に、店の木戸をそうっとくぐりぬけて駅へ向かった。北でも南でも、最初に来た列車に乗ろうと思った。三番線に特急が入ってきた。京都で降りるあてもなく歩いて山陰線に乗った。城崎、鳥取、島根、山口・・・・・10日ほどして家に電話を入れた。
「もうお母ちゃんはだいじょうぶやから、帰っておいで」
久しぶりに聞く母の元気な声だった。
私はこんなところをほっつき歩いて何をしているんだろう。自分の人生、自分で歩いていくと決めたばかりではなかったのか。
母と話し合ってもう一度、仕事に戻ることにした。母や妹たちへの申しわけなさで心が押しつぶされそうだった。自分の身勝手さ。心のままに、自分に正直に生きることのむずかしさをかみしめていた。
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