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《父の死》
「父の言葉」
体が動き出すようになると、猛烈に仕事がしたくなった。テレビの番組を作るという虚構の世界の中で働くことが、ほんとうに虚構なのかどうか、もう一度確かめたくて、休んでいる間に考えていたことを仕事の中で生かしてみたくなった。それでだめならまた考えよう。いそいそと旅立つ用意をしたいた私の傍らで、帳簿の整理をしながら眺めていた父が言った。
「東京行かんと、一緒に家におらんか。醤油屋が嫌なら、おまえはせんでもええ。学校の先生でも、何でも好きなことすりゃええ。醤油屋は婿さんにやってもらえばいいやんから。どうや家におらんか」
うしろ姿がいつになく寂しそうだった。今を逃せば、父とじっくり話し合う機会ももうないだろう。これまで同じことを何度、言い合ったことか。それでもきちんと話し合っておかねばならなかった。
「醤油屋さんが嫌というわけではないんや。ただ、それが自分で一生を賭けてできる仕事かどうか、もっといろんなものを見て、いろんなことをして、自分が納得できる仕事をつかみたいんや。とりあえず音響効果の技術を身につけたから、一人前になりたいんや。女でも仕事を持って生きたいの。できれば音の技術を身につけて、映画をとりたいと思ってるんやけど。このまま途中で放り出したくないの」
「映画なら、醤油屋をやりながらでも、まこと作ろうと思うたら作れる。結婚しても、家にいれば、子供をおいて仕事にも行ける。別に東京なんか行かんでも、ここにいれば何でもできる」
そう言って、父は帳簿整理の手を休め私の顔を見た。私は黙っていた。家にいると、家や親のフィルターを通してしか社会とかかわりが持てず、どんなに自分の頭で考え、自分の足で歩いていける人間になろうと思っても、ぬるま湯の中であがいているようなものだった。
「もういっぺん音の仕事に戻ってみるわ。それが自分に合っているかどうかと言われても疑問やし、何か人のために役立つかと言われても疑問やけど、とにかく探してみないことにはわかんない。音の仕事をしながら納得できる自分の生き方を探してみるわ」
そう言うと、父はがっかりしたように、けれども何だかほっとしたように、丸い目をしばたかせて言った。
「そうか、そんならもう言わん。おまえの人生や、おまえの好きなようにせいや。だれもおまえの人生を代わってやることはできんのやから。せいぜい生きても人生あと50年や。けどな、自分の心のままに、自分に正直に、好きなように生きるというのは、いちばんむずかしいことや。それができるんならしてみい。醤油屋なら、何とでもなるやろ・・・・。おまえの好きなようにせい・・・・。体だけは気いつけや」
そう言って父は、背を向けて書類の整理を始めた。
「大事なもんはこの箱の中に入っとるから、覚えといてくれや」
涙がとめどなくあふれてきた。
おまえの好きなようにせい、思いがけない言葉だった。あらためてそう言われると、ほんとうはうれしいはずなのに、突き放されたような寂しさと、ひとりぼっちで置き去りにされたような悲しさがこみあげてきた。
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