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「ベッドの中で見つけたもの」
北陸の春先の陽光がやわらかに射し込む病院のベッドに横たわって、耳を澄ましていると、体中の一つ一つの細胞が、キシキシと音をたてて、反乱を起こしているようだった。内蔵の一つ一つが声をたてて、何か叫んでいるようなのだ。今まで気にもとめなかった、それぞれの臓器が、臓器を作る一つ一つの細胞が互いにかかわり合い、助け合って、私という人間が生きているということを訴えているのだ。一つ一つの細胞が回復するために、ただただベッドに横たわって、食べて眠るだけ。眠って食べて排泄して、人間の生きる原点から、すり減らしてしまった心と体の闘病が始まった。
なかなか尿の中の赤血球は減らない。天井の白い壁の穴模様を教えながら一つ一つの記憶で埋めていく。いくつ数えても、いくつ埋めてもなかなか今日が終わらない。検査だといって、毎日のように看護婦さんが血をとっていく。注射器を持つ看護婦さんが吸血鬼のように見えてくる。
腎生検、腎機能検査、レントゲン・・・・・検査ばかりの日が続く。何もできず、何もせず、怠惰な無為な時が流れるようでたまらない日々が続いていた。
そんなある日のこと、向かいのベッドに寝ているおばさんがテレビのスイッチを入れた。突然、画面に黄金の海が輝いて懐かしい曲が流れてきた。入院前に収録しておいた番組だった。静かな夜の病室に流れるドラマのメロディーが哀切をおびて、心に深くしみてきた。私は体を起こして、わくわくしながら見つめていた。
突然、音が消えた。
闇の向こうに看護婦さんの白い姿が浮かんだ。巡回の時間が近づいて、テレビの音をしぼったのだ。音のない画面で、役者さんたちが口をパクパクあけて動いている。
今まで盛り上がりをみせていた画面が突然、迫力をなくして色あせてみえた。あそこにはあんなせりふが、ここにはこんな音楽があったと思うが、色あせた画面からは何も見えず、何も語りかけてこない。スイッチ一つで簡単に消されてしまうテレビの世界、消されてしまったら最後、もうその作品は私たちの目の前には出てこない。そんなことは百も承知で始めた仕事だったのに。自分の体をぼろきれのようにすり減らしてまでやる価値がある仕事なのだろうか。いっしょうけんめいに、夢中でのめり込んでいた仕事がこんなものだったのか・・・・・。
画面の向こうに、スタジオで働いているたくさんの人たちの姿が見えた。あの人たちは、今もこうやってそれぞれの仕事に一喜一憂しながら働いていることだろう。
テレビという虚構の世界の中で、他人の生活や出来事を追いかけて、いつの間にか自分自身の生活がなくなって、根無し草のように日常の感覚がまひし、鈍化し、溺れていってしまう。
ほこりっぽいスタジオの中で、マイクの前で、創造とはおおよそ似ても似つかぬ情報が渦巻き飛び交う社会。そこでは、すべてのものが形を整え、計算され、とりつくろわれ、たちまちのうちに消え去って、人間さえも消耗品にしてしまう。
こんな中で生きていっていいのだろうか。はたしてこんな生き方をしてしまっていいのだろうか・・・・。
ベッドの中で私は、そんな疑問が重く深く心の中によどみ沈んでいくのがわかった。
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