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■山崎洋子&一之 さん 
■長澤源一 さん ■梶谷きよみ さん


(8/16)

 井戸端へまわって、ポンプの水をくみ出した。白い泡を飛ばして、透き通った水がほとばしり出た。思いきり顔を洗って額をごしごしこすった。蝿取りリボンのねばっこい気持ち悪さが消えていくようだった。 
 そうっと一口、水を口にふくんでみた。冷たく甘い水の香りが、のどにくーっとしみていった。一年前、彼と彼の父親と一緒に足元の土の下を掘ってつくった手掘りの井戸だった。土の下は、硬い岩盤。のみでけずり、ハンマーで叩きながら一掘り一掘り掘っていったという。周囲には掘り出された石で積んだ長い石垣ができていた。それでも足りずにあちこちに褐色の肌の大きな石がころがっていた。ごつごつした岩穴の井戸をのぞくと、深い水をたたえて、枯れ葉が二、三枚浮かんでいた。小石を投げ入れると、ポッチャーンと音がして、水に映った青い空と私の顔が揺れていた。
 風呂場をのぞいてみた。板戸を開けると、中は変形した五角形の風呂場。大きな鉄釜がタイルの中にはめ込んであり、中には丸い板が浮いていた。この板の上に体をかがめてしゃがむのだという。五右衛門風呂だった。直径1メートルの鉄釜を、くず鉄屋さんから五百円で分けてもらったのだそうだ。風呂場のタイルの上に、手作りの燭台に立てた太いろうそくが一本置いてあった。夜、仕事を終えてろうそくの明かりの中で板を浮かべ、風呂に入るのだという。ろうそくなんて、何と優雅なんだろう。
 五右衛門風呂なんておもしろそうなので、いっぺん風呂に入れさせてもらった。まきをくべる釜の底から熱い湯がプクプクッと上がって、お尻が急に熱くなった。ポリバケツの水をひしゃくで入れてふと見ると、胸の横に木の葉のようなものが浮いていた。何だかもぞもぞ動いている。ろうそくの明かりを近づけてよく見ると、何と、茶色い大きなゴキブリだった。ゴキブリばかりでなく、エンマコオロギやクモ、得体の知れない昆虫たちが一緒に釜の中でゆだっていた。

 この家は、設計図も描いたことのない彼が父親の助けを借りて、初めて建てた家だった。お金はもちろん、材木も道具もない。基礎を打つ生コンやセメントを買う余裕もない。
 都会の友人たちから集めたカンパと、両親から借りた父親の退職金、そして自分で稼いだ資金は、とうの昔に五反の土地と十数頭の牛を買ってすべて消えてしまっていた。
 この土地にどうやって家を建てるか。材木を手に入れるために、ダンプを借りて土方にいって壊家を手伝って、廃材をもらってくることにした。設計図は、大地をならして、直接地面に絵を描いた。台所、トイレ、風呂場、玄関・・・・・部屋の間取りを実物大の大きさで描いた。寸法をとり縦糸と横糸をはり直した。コンクリートが買えないからそのまま柱を埋めようと穴を掘ったが、地面の下は石だらけ。しかたがないので、井戸から掘り出した石を敷きつめた。その上に大きな梁を家の土台に四角く組んで敷いて四隅に穴を掘って柱を建てた。
 廃材の中から使える柱や角材を探し出すと、釘をぬいてカンナをかける。そうすると、すすけて薄汚れた柱も、見違えるように木肌を現してきた。家の裏には使い残した廃材が山のように積んであった。春から夏、夏から秋、小さな家造りにかかりきっている間に、かけ足で季節が過ぎていった。
 天井と押し入れができて、家の周囲に青いトタンを打ちつけると、空に一面、どんより重い鉛色の黒雲が立ちこめて、遠くいなずまが光り始めた。いなずまとともに大きな雷鳴がとどろき、激しい音をたてて大粒のあられが赤いトタン屋根の上を打ちつけた。雪おこしの雷だった。バラバラと叩きつけるように降ったあられは、またたく間に家のトタン屋根や牛舎の屋根を白く覆い尽くした。冬将軍の訪れだった。初めて迎える北陸の冬。井戸も掘った。家も建った。牛と鶏、猫と子犬、彼の牧場生活が始まった。

部屋の隅でコオロギが鳴いていた。ほの明るいランプをちゃぶ台の上に置いて、そのまわりを囲んだ彼と仲間たちが、ギターを弾いて自分たちの歌を歌う。静かな山の林の奥、闇の中で、ここだけがぽっかり明るい、そんな思いにかられた。
 外に出ると、星が降るように瞬いていた。
 こんな生活があったのか・・・・。こんな生き方があったのか・・・・。私には思いもかけない別世界だった。


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