第二回
福岡 伸一
(ふくおか しんいち)
京都大学・助教授 (分子生物学)

 

食をめぐる選択の自由、について。
子供が言う。「僕はピーマンが嫌い!」お母さんは子供が偏食になっては大変 と、なんとか子供にピーマンを食べさせようとする。

「ピーマンにはビタミンがたくさ ん」とか「体にいいわよ」と説得を試みる。「ピーマン食べないとデザートはなしよ」 と脅してみることも。それでも子供はピーマンを食べない。

そこである日、お母さん は一計を案じた。ちょっと見ただけではわからないくらいにピーマンを細かく刻ん で、子供が大好きなチャーハンにまぜて食べさせることに成功したのだ。

 

しつけの話ではない。
基本的人権の話である。食べたくないものを、知らないうち に、見えない形で食べさせられる。これは端的にいって、重大な基本的人権の侵 害である。

いま、私たちの食をめぐって、これと同じような基本的人権の侵害がま かりとおっている。私たちは自分が食べたいと思うものを選んで食べる「選択の自 由」がある。逆に、私たちは自分が食べたくないと思うものを避けることのできる自 由がある。

食べたい食べたくないは個人の自由であり、それが安全であるからと か、身体によいから、といったレベルの判断よりも、ずっと基本的なレベルの自由 である。

安心と安全は違う、と言い換えてもいいだろう。

食をめぐる最近の重大問 題としては、なんといっても狂牛病の問題がある。政府や専門家は、検査態勢は 万全で安全が確保された、これからは全く問題ないと説明し、消費者を説得する。
しかし、現時点では、「食べたくない」「気持ち悪い」「何となく政府のいうことは信じ られない」と思う人たちも少なくないだろう。ここが、食をめぐる選択の自由が保障 される基本的なレベルとなる。

なぜなら、食べるという行為は、セックスと同じよう に、もっとも個人的な営為だから。ところが、この選択の自由を保障すべき最低限 のシステムと最小量のモラルさえ、守られていないことが判明した。

表示の詐術で ある。
輸入品が国産品に、XX県産がOO県産に、あげくに、賞味期限の日付まで が自由自在に書き換えられているという。私たちがいくら「これは食べたくない」と いう立場をつきたくとも、チャーハンの中に細かく刻まれて見えないように入れられ たピーマンのごとく、それらは容赦なく私たちの口の中へ入り込んでくるのだ。

いま いちど、知らないうちに、ピーマンを食べされられたことを知った子供の気持ちに思 いを馳せてみるべきである。そして、私たちは、食の選択の自由を守るために何を なすべきかを考えるべきである。

 

京都吉兆では、「おまかせ料理」から牛肉を使ったメニューを外しているという(朝 日新聞、平成13年12月26日京都版)。それでも、どうしても牛肉を食べたいとい う客もいるので、すきやきやしゃぶしゃぶは注文があれば出す、という。
私は、吉 兆さんにまで行ってすき焼きやしゃぶしゃぶを食べる人の気持ちがよくわからな い。 
が、それはさておき、この吉兆の対応は、狂牛病騒動に対する極めて冷静か つ正しい態度といえるのではないだろうか。

それは、食をめぐる私たちの選択の自 由にきちんと配慮しているからである。私たちはみな自分の好きな物をおいしく食 べたい。
そして自分が何を食べているかよく知っていたい。
選択の余地が限られる 「おまかせ」的な場合は、安心がより多くの人に保証されるべきなのである。

しか し、この世の中、吉兆さんはある意味例外中の例外である。プロセスや材料が見 えにくい加工食品は山ほどあり、一体なにをどのようにして作られたのか全くわか らない「おまかせ」料理はごまんとある。私たちはどのようにして自分の身を守れ ばよいのだろうか。

 

そのヒントを、これまた吉兆さんに気づかされた。
少し前、私は旅先である旅館に 投宿した。そこには客がくつろげる書斎のようなコーナーがあり、本棚に本が並ん でいた。片隅に、湯木貞一氏の「吉兆味ばなし」があって、私はパラパラとページを めくってみた。

この本は、吉兆の創始者、湯木氏が、名編集者花森安治を相手に 四季折々の料理や素材にまつわる話を問わず語りで語ったもので、そのなかに、 豆腐に関する話がこんな風にでていた。豆腐屋さんは、夜半から仕込みをしてそ の日の早朝に出来た豆腐を売る。だから本来、豆腐は夜の食材にはならない、 と。  

今、若い人でこの話を聞いて、このロジック(なぜ豆腐が夜の食材にならないの か)がストン、と胸に落ちるヒトがどれくらいいるだろうか、と私は思った。そして、私 たちが食の選択の自由を守るために、まずは取り戻さなければならないごく普通 の感覚がここにあることに思い至った。

湯木氏がいっていることは全く自然なもの の理(ことわり)なのだ。

およそ、人の手がふつうに加わった食材は、作られたその 瞬間から壊れていく。あるいは悪くなっていく。そのタイムスケールは、朝作られた ものは、夜には悪くなりかけている、といった時間感覚のなかにあるのだ。ところ が、私たちはあまりにも人工的な食材にならされてしまって、いつまでおいても壊 れず、色も変わらず腐りもしないものに驚くこともいぶかることもなくなってしまって いるのだ。
ふつうの室内温度にさらしておいて、二日も三日も腐らず、かびも生え ず、色も変わらないならば、そこにはそれだけのきわめて不自然な仕掛けがなされ ているのである。

もし、私たちが食の選択の自由を自ら勝ち取ろうとするならば、ま ず必要なのは、私たち自身の食に対する感覚、  ―あるいはそれを自然観と呼んで もいいだろうー、  それを再び、より等身大(ライフ・サイズ)のものとしてとりもどさね ばならない。
早朝に作られた豆腐は、その日、早いうちに食べるのがまっとうだと いう等身大の感覚。

 

そのうえで初めて私たちは、より積極的に、自分の食を自分で守る契機を見いだ すことができるのではないだろうか。守るためにはそれなりの知力と体力を要す る。その力を身につけるために私たちはより食に対してコンシャスにならねばなら ない。先頃、「国産」肉の不当表示に関してこんなニュースを聞いた(朝日新聞、平 成14年1月31日)。

輸入牛肉と国産牛肉を見分けることはプロフェッショナルなら ばその一部については可能だという。そのポイントはカットの方法の違いで、リブ ロース、ヒレ、肩ロースなどは見分けやすい。
リブロースの場合、輸入肉はロース 芯(しん)の部分しかないが、国産品は、芯の上に「かぶり」と呼ばれる肉と脂肪部 位がついている。
肩ロースも、国産肉は輸入ものより幅広なうえ、ネック(首)部分 がついているため違いがわかりやすい(図参照)また、輸入牛肉と国産牛肉とで はエサの違いから「指で脂を触ればわかる」ともいわれる。

このようなノウハウをど んどん私たち自身が自分のものとしてしまえばよいのだ。魚の鮮度を見抜く方法、 野菜の善し悪しを判別する着眼点。

さらにいえば、このようないわゆる「おばあちゃ んの知恵」レベルのノウハウだけでなく、私たちはもっと過激に「武装」してもよい のだ。

たとえば一般消費者が、遺伝子鑑別や食品添加物分析ができるようになっ たとしたら。今のところそれには多少のカネと装置が必要である。しかし、その原理 と分析操作はちょっと気の利いた中学生ならできる程度のことなのである。
もし、 消費者が肉のサンプル中のDNAを分析してその雌雄が判別できるとしたら、これ はもう立派な抑止力となりうるだろう。

スーパーなどで特売される安い「国産牛」の ほとんどは、用済みになった高齢のメス乳牛が転用されたものである。

消費者がD NA鑑別できるなら、このような肉が高級和牛に変身することはできなくなる。消費 者が添加物の量をチェックできるようになれば、ニセ有機食品はなりたたなくなる。 もちろん、目利きになるためには、そのための時間と訓練とそれを可能とするシス テム作りが必要であり、最初はさまざな混乱もあるだろう。でもそれゆえにこそ何 度も学びための契機が訪れるのである。私たちは自分の食べたいものが食べられ るようになるというのは実は、こういうことではないだろうか。

どうです、みなさん、 目利きになるためのノウハウをここに持ち寄ろうではありませんか。私も必要と思 われる情報の開示や発信を積極的に行っていくつもりである。