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●食をめぐる選択の自由、について。 「ピーマンにはビタミンがたくさ ん」とか「体にいいわよ」と説得を試みる。「ピーマン食べないとデザートはなしよ」 と脅してみることも。それでも子供はピーマンを食べない。 そこである日、お母さん は一計を案じた。ちょっと見ただけではわからないくらいにピーマンを細かく刻ん で、子供が大好きなチャーハンにまぜて食べさせることに成功したのだ。
しつけの話ではない。 いま、私たちの食をめぐって、これと同じような基本的人権の侵害がま かりとおっている。私たちは自分が食べたいと思うものを選んで食べる「選択の自 由」がある。逆に、私たちは自分が食べたくないと思うものを避けることのできる自 由がある。 食べたい食べたくないは個人の自由であり、それが安全であるからと か、身体によいから、といったレベルの判断よりも、ずっと基本的なレベルの自由 である。 安心と安全は違う、と言い換えてもいいだろう。 食をめぐる最近の重大問 題としては、なんといっても狂牛病の問題がある。政府や専門家は、検査態勢は 万全で安全が確保された、これからは全く問題ないと説明し、消費者を説得する。 なぜなら、食べるという行為は、セックスと同じよう に、もっとも個人的な営為だから。ところが、この選択の自由を保障すべき最低限 のシステムと最小量のモラルさえ、守られていないことが判明した。 表示の詐術で ある。 いま いちど、知らないうちに、ピーマンを食べされられたことを知った子供の気持ちに思 いを馳せてみるべきである。そして、私たちは、食の選択の自由を守るために何を なすべきかを考えるべきである。
京都吉兆では、「おまかせ料理」から牛肉を使ったメニューを外しているという(朝 日新聞、平成13年12月26日京都版)。それでも、どうしても牛肉を食べたいとい
う客もいるので、すきやきやしゃぶしゃぶは注文があれば出す、という。 それは、食をめぐる私たちの選択の自 由にきちんと配慮しているからである。私たちはみな自分の好きな物をおいしく食 べたい。 しか し、この世の中、吉兆さんはある意味例外中の例外である。プロセスや材料が見 えにくい加工食品は山ほどあり、一体なにをどのようにして作られたのか全くわか らない「おまかせ」料理はごまんとある。私たちはどのようにして自分の身を守れ ばよいのだろうか。
そのヒントを、これまた吉兆さんに気づかされた。 この本は、吉兆の創始者、湯木氏が、名編集者花森安治を相手に 四季折々の料理や素材にまつわる話を問わず語りで語ったもので、そのなかに、 豆腐に関する話がこんな風にでていた。豆腐屋さんは、夜半から仕込みをしてそ の日の早朝に出来た豆腐を売る。だから本来、豆腐は夜の食材にはならない、 と。 今、若い人でこの話を聞いて、このロジック(なぜ豆腐が夜の食材にならないの か)がストン、と胸に落ちるヒトがどれくらいいるだろうか、と私は思った。そして、私 たちが食の選択の自由を守るために、まずは取り戻さなければならないごく普通 の感覚がここにあることに思い至った。 湯木氏がいっていることは全く自然なもの の理(ことわり)なのだ。 もし、私たちが食の選択の自由を自ら勝ち取ろうとするならば、ま ず必要なのは、私たち自身の食に対する感覚、 ―あるいはそれを自然観と呼んで
もいいだろうー、 それを再び、より等身大(ライフ・サイズ)のものとしてとりもどさね ばならない。
そのうえで初めて私たちは、より積極的に、自分の食を自分で守る契機を見いだ すことができるのではないだろうか。守るためにはそれなりの知力と体力を要す る。その力を身につけるために私たちはより食に対してコンシャスにならねばなら ない。先頃、「国産」肉の不当表示に関してこんなニュースを聞いた(朝日新聞、平 成14年1月31日)。 輸入牛肉と国産牛肉を見分けることはプロフェッショナルなら
ばその一部については可能だという。そのポイントはカットの方法の違いで、リブ ロース、ヒレ、肩ロースなどは見分けやすい。 このようなノウハウをど んどん私たち自身が自分のものとしてしまえばよいのだ。魚の鮮度を見抜く方法、 野菜の善し悪しを判別する着眼点。 さらにいえば、このようないわゆる「おばあちゃ んの知恵」レベルのノウハウだけでなく、私たちはもっと過激に「武装」してもよい のだ。 たとえば一般消費者が、遺伝子鑑別や食品添加物分析ができるようになっ たとしたら。今のところそれには多少のカネと装置が必要である。しかし、その原理
と分析操作はちょっと気の利いた中学生ならできる程度のことなのである。 スーパーなどで特売される安い「国産牛」の ほとんどは、用済みになった高齢のメス乳牛が転用されたものである。 消費者がD NA鑑別できるなら、このような肉が高級和牛に変身することはできなくなる。消費 者が添加物の量をチェックできるようになれば、ニセ有機食品はなりたたなくなる。 もちろん、目利きになるためには、そのための時間と訓練とそれを可能とするシス テム作りが必要であり、最初はさまざな混乱もあるだろう。でもそれゆえにこそ何 度も学びための契機が訪れるのである。私たちは自分の食べたいものが食べられ るようになるというのは実は、こういうことではないだろうか。 どうです、みなさん、 目利きになるためのノウハウをここに持ち寄ろうではありませんか。私も必要と思 われる情報の開示や発信を積極的に行っていくつもりである。 |